ドイツかぶれの徒然

英語が嫌いで気づいたらこうなっていた。思い出したように更新するただの生存報告になりつつある

「北部朝鮮・植民地時代のドイツ式大規模農場経営」とか、そんな話題

このブログにしては珍しくドイツの話題ですが、またしてもドイツの話題ではありません(

 

三浦洋子(2011)『北部朝鮮・植民地時代のドイツ式大規農場経営』を暫く前に読みました。

WWI時のドイツ人捕虜といえば、板東俘虜収容所のエピソードやユーハイム、フロインドリーブなど今も残る食品産業への影響が有名ですが、日本統治下の朝鮮に渡って農場を作った人たちもいたのです。

もっとも、彼らが農場主になることはなく給金を得て農業をするという今で言う農業法人のスタイルで、経営が上向かないまま出資者の日本人によってドイツ人は解雇されてしまうのですが。

それでも、稲作は気候が合わない土地で粟や稗を食していた当地の人々に、ジャガイモとライ麦を普及させ、様々な肉や牛乳の加工食品を紹介した功績は大きいでしょうし、その影響もまた広範に渡る、はずでした。

しかし戦前の朝鮮に纏わるあらゆる事柄同様、終戦時の混乱に乗じたアレヤコレヤと南北両政府の政策によって、日本人の事績とともにドイツ人が朝鮮の発展に寄与した歴史も埋もれさせられたのです。

彼らドイツ人が開墾した蘭谷農場は今では軍事境界線の北側に位置していますが、彼の国の食糧事情を鑑みるにこの農場が残した手法や教訓も一度一切失われたと見てよいでしょう。

今世紀になってやっとトウモロコシ偏重から脱却しようとジャガイモ革命とか言っているようですが、相変わらず上手く行っていないですし。

 

ライ麦パン大好きな身としては、戦前の日本で寒冷地の農業改善のためにライ麦の栽培が奨励されていたというのがちょっと驚きでした。そのまま普及してくれればよかったのに。。。

それとブルートソーセージなるドイツ語と英語のちゃんぽん感あふれるブルートヴルストも作っていたようで、そのまま普及してくれればよかったのに。。。(二度目

しかしこの蘭谷農場の大規模機械農法が戦前の日本で普及することがなかったのは、やはりこの農場の経営面での躓きによるものだと思います。

1920年に農場が開設された後、1932年のドイツ人解雇まで基本的に赤字を垂れ流している状態で、それが改善されるのには更に10年ほどかかっていたようですが、もう戦争も佳境となっている時期です。

一方で1932年には満州国が建国され、多くの日本人移民が送り込まれたのは広く知られていますが、そこで当初行われた農法というのはがむしゃらに勤勉に土を耕せというやり方で、機械や家畜が最初から導入されていたわけではなかったのです。

ただ満州の日本人による入植のやり方も後年には改善され、機械や化学肥料の投入が行われたようですが、最初から蘭谷のモデルを導入して有畜畑作のやり方に進まなかったのは丁度蘭谷の経営が思わしくなかった時期に当たるからではないか、と思うと少し残念に感じます。

もちろん、戦争が激化するとともにトラクターを始めとした農機の入手は不可能になっていきますから、何をしたとしても時すでに遅かったかもしれませんが。

 

藤原辰史(2017)『トラクターの世界史』も読みました。実のところ、ドイツの話題はこっちのほうが多いんですが、まぁこっちは安い本なので皆さんよんでください(

で、こうなるといろいろ欲求が溜まってきてですね、FarmingSimulatorに出てくるような巨大農機見に行きたいなとか、ライ麦パン食べたいとか、トラクター以前の馬耕の道具ってどうなってたんだろうとか、ブルートヴルスト食べたいとか、狼と香辛料的な村の暮らしが気になったりとか、チーズフォンデュ食べたいとか、黒ビール飲みたいとか、まぁそんなわけで

明日からドイツ行ってきます(

写真とか、余裕あれば載せますね。